本作品に登場するスコットランド女王メアリー・ステュアートと、イングランド女王エリザベス1世。二人は、血なまぐさい宗教戦争と華やかなイギリス・ルネサンス文芸の黄金時代である16世紀に生きていた。史実では、2人は常に拮抗し、メアリーはエリザベスによって処刑され、しかも2人は同じ島に生きながら、決して出逢うことがなかった。
 男で身を滅ぼしたといわれるメアリー・ステュアートは、生後6日でスコットランドの王位を継承し、その後、1558年にフランスのアンリ2世の皇太子であるフランソワとの政略結婚でフランスの王妃になる。しかし、1560年にフランソワが病死し、世継ぎがいなかったことから、翌年にスコットランドに帰国。1565年には、ダーンリー卿と再婚を果たし、息子ジェームズを無事に出産するが、夫婦仲は悪化の一途を辿る。1567年にダーンリー卿が殺害され、その数日後に思いを寄せていたボスウェル伯と結婚、当時、ダーンリー卿を殺害した首謀者がボスウェルで、共犯者はメアリー・ステュアートとだと思われていた。しかし、この結婚はカトリックとプロテスタントの両貴族から反対され、ついには反乱軍によってメアリー・ステュアートは廃位させられてしまう。その後、幽閉されていたロッホレーヴン城を脱走したメアリーは、エリザベス1世の元へと落ち延び、各地を転々としながらも、イングランドの王位継承者であることを主張し、エリザベス1世の廃位の陰謀に関係したと言われている。1586年のカトリック貴族のアンソニー・バビトンが、エリザベス1世の暗殺を企てた事件で、メアリー・ステュートが関与した証拠が裁判で明るみにでたため、1587年に処刑されてしまう。
 一方、25歳でイングランドの女王となったエリザベス1世は、政治的問題と絡む男女関係に煩わされることを嫌って、一生結婚をしないことを宣言し「処女王(Virgin Queen)」と呼ばれた。エリザベス1世の母は、父ヘンリ8世の2番目の妃となったアン・ブーリン。母は、男子を生まなかったため、夫の不興をかい、処刑された。2歳で母を失ったエリザベスは、私生児とされ、父の死後11年間を統治した異母弟エドワード6世と異母姉メアリ1世の時代に、彼女は数度にわたって君主への謀反を疑われ、ロンドン塔に幽閉されている。幸運にも処刑を免れ、1558年メアリ女王崩御の後、エリザベス女王が誕生する。赤茶色の髪と褐色の目、すんなりした肢体と、美人ではないが、魅力にあふれ、ルネサンス的教養に富み、フランス語、イタリア語、ラテン語、ギリシア語を自在に話せる才媛であった。エリザベス女王はまず宗教改革を行い、ヘンリー8世が国教会を成立させて以来争ってきたカトリックとプロテスタントをまとめた。1588年には、ドーバ海峡でスペインの無敵艦隊を破り、当時としては小国イギ リスが大国スペインに大勝利したことになる。これによって海外への進出が容易になり英国経済は大いに発展していくのだった。
 エリザベス自身は数ある結婚話を全て断り、生涯独身を貫いたが,女王の主馬頭であったロバート・ダドリーを寵愛した。そして、エリザベス女王の最後の功績は父ヘンリー8世の妹マーガレットの末裔であるスコットランド王ジェームズ6世(マーガレットの孫メアリー・ステュアート女王の息子。つまり自分が処刑した女王の息子)を後継者に選び、イングランドとスコットランドを一つにした(同君主連合)。イングランドの栄光時代を築いた“良き女王ベス”は、1603年3月24日、70歳で亡くなった。
 メアリー・ステュアートが自分の暗殺事件に関与して死刑の宣告が下された際、エリザベスはその処刑の書類に最後までサインを拒否したと言われている。
 メアリーはスコットランドとカトリックを代表し、エリザベスはイングランドとプロテスタントを代表する形で、数多くの文献に残されている。