アメリア・エアハート Amelia Mary Earhart,
1897年7月24日-1937年7月上旬、行方不明
アメリカ合衆国の女性飛行士。女性として始めての大西洋単独横断飛行などをした。1937年世界一周飛行の途中で南太平洋で行方不明となった。 アメリカのカンザス州アチソンで生まれ、第一次世界大戦中はカナダの陸軍病院で看護助手として働いた。1921年にカリフォルニア州ロサンゼルスで、ネタ・スヌークから飛行訓練を受け、最初の飛行機を買った(Kinner Airstar)。家族問題により、彼女は1924年に飛行機を売り、東部に戻りソーシャル・ワーカーとして働いた。 1928年4月のある午後、彼女は仕事中に一本の電話を受けた。電話の主は通話の終わりに彼女に尋ねた。「大西洋を飛びたいと思いますか」彼女は政治評論家で出版者であったジョージ・プットナムと会い、パイロットのウィルマー・スタールズと副操縦士兼エンジニアのルイス・ゴードンのチームに共同パイロットとして加わるように依頼された。チームは1928年6月17日にフォッカーF7でニューファンドランドのトレパシー湾を出発し、およそ21時間後にウェールズのバリー・ポートに到着した。彼らはアメリカへ戻った時、ニューヨークで紙吹雪の舞うパレードと、カルビン・クーリッジ大統領によって開催されたホワイトハウスのレセプションで歓迎を受けた。その時以来、飛行機で空を飛ぶことはアメリアの生活の一部となった。彼女はクリーヴランドでの、ウィル・ロジャーズによって「パウダー・パフ・ダービー」と呼ばれた女性の航空レースで3位になった。彼女とプットナムは大西洋横断の準備の間に友情を深め、彼らは1931年2月7日に結婚した。アメリアは結婚を「2重のコントロール」との「協力」と呼んだ。
1932年5月20日に彼女はチャールズ・リンドバーグのパリへの単独飛行と同じルートを、カナダのニューファンドランドのグレース湾からロッキード ベガで出発した。しかしながら強い北風と氷および機械的な問題で、アイルランドのロンドンデリー近くの牧場に着陸せざるを得なかった。彼女は大西洋単独横断飛行の成功で、議会からの空軍殊勲十字章、フランス政府からのレジオン・ド・ヌール勲章およびハーバート・フーヴァー大統領からの米国地理学協会のゴールドメダルを受け取った。
1935年1月11日、ハワイからカリフォルニアまでの単独飛行にも成功した。1931年にはオートジャイロでの最高到達高度記録も樹立した。
1937年5月21日世界一周飛行に、ナビゲータのフレッド・ヌーナンとロッキード・エレクトラでアメリカの西海岸オークランドを飛び立ち、東周りに飛行し、6月30日ニューギニアのラエまで到着、7月2日南太平洋のハウランド島をめざして離陸した後、消息を絶った。その飛行の途中の航空日誌などを、寄航するごとに故郷に送っており、後に夫のジョージ・プットナムがまとめて『最後の飛行』として出版された。

アメリカ政府は、アメリアトの捜索に400万ドルを費やした。捜索隊は海軍および沿岸警備隊によって組織されて、当時最も高価で最も集中的である航空および海中探索を行った。多くの研究者が、アメリアとヌーナンの飛行機は燃料を使い果たしたが不時着水したと信じている。2005年現在アメリカ人海洋探検家David Jourdanによる1億5千万円を使った探査が行われているが、機体はいまだに発見されていない。

チャールズ・リンドバーグCharles Augustus Lindbergh II,
1902年2月4日 - 1974年8月26日
アメリカの飛行家。1927年ニューヨーク・パリ間を飛び、大西洋単独無着陸飛行に初めて成功。また、1931年には北太平洋横断飛行にも成功。
リンドバーグはスウェーデンの移民の息子としてミシガン州デトロイト市で生まれ、リトルフォールズで成長した。彼の父親は弁護士、その後国会議員となり第一次世界大戦への米国の参戦に反対した。彼の母親は化学教師だった。彼は幼少時から機械への関心を示したが、1922年には機械工学から離れ、ネブラスカ航空機でパイロットと整備士の訓練に参加したあとカーティスJN-4「ジェニー」を買い、曲芸飛行士になった。1924年にはアメリカ陸軍航空隊で飛行士として訓練を始めた。訓練を一番の成績で終え1920年代にはライン・セントルイスの民間航空便パイロットとして働いた。1927年5月20日5時52分(出発時の現地時刻)、リンドバーグはスピリットオブセントルイス号(ライアンNYP)でニューヨークのルーズベルト飛行場を飛び立ち、5月21日22時21分(到着時の現地時刻)、パリのル・ブルジェ空港に着陸、大西洋単独無着陸飛行に初めて成功した。飛行距離5810kmで飛行時間は33時間29分30秒だった。これにより彼は、ニューヨーク−パリ間を無着陸で飛んだ者に与えられるオルティーグ賞とその賞金25,000ドル、さらに、世界的な名声を得た。大西洋単独無着陸飛行に成功した際、ル・ブルジェ空港に詰め寄った人たちは空港に入りきれない人たちも含めて延べ75万人とも100万人ともいわれている。
スピリットオブセントルイス号は、リンドバーグの指示の元に特別にカスタマイズされた機体であった。多量の燃料を積み込む様にした為に操縦席からは直接前方が見えず、潜望鏡のようなものを使うか窓から顔を出して前を見なければならなかった。これは、無名の操縦士だったリンドバーグには出資者が少なく、他のオルティーグ賞挑戦者のように大形の機材を用意できなかったことが最大の理由である。また、エンジンもリンドバーグが望んだものよりやや性能の低いものにせざるを得なかったため、前方視界を犠牲にしても燃料の搭載量を増やすことで対処した。この結果バックアップの操縦士も乗せることはできず、パリまでの全行程をリンドバーグ一人で操縦し続けるという過酷な飛行であった。飛行中、リンドバーグは強い睡魔に襲われる危機に見舞われるが、これを克服してパリに到達した。現在、この機体は、スミソニアン航空宇宙博物館に展示されている。

ライト兄弟

ウィルバー・ライト
Wilbur Wright

1871年8月19日〜1948年1月30日

オーヴィル・ライト
Orville Wright

1867年4月16日〜1912年5月30日
兄の『ウィルバー・ライト(1867‐1912)』とその弟の『オーヴィル・ライト(1871-1948)』のライト兄弟を知らない者は少ない。
おそらく世界的にも歴史的にも、最も有名な飛行家として名を残していることだろう。
ライト兄弟は、飛行機の発明者。元は自転車屋だった。ドイツの航空研究家で兄弟が大ファンであったグライダーを開発したオットー・リリエンタールが1896年に事故死したことをきっかけに、飛行機の研究をするようになった。
1903年12月17日にノースカロライナ州のキティ・ホークにて「ライトフライヤー号」によって人類で初の飛行機による有人動力飛行に成功した。それまでの飛行の試みの多くが、「ジャンプ」に毛の生えたものでしかなかったのに対して、主翼をねじることによって制御された飛行を行い、飛行機の実用化に道を開いた。しかし、当初、世間はかなり冷淡であり、しかもアメリカでは様々な事情から特許権関係の問題を突きつけられた。