ロバート・アラン・アッカーマン、『ストーン夫人のローマの春』を語る
(文:谷田尚子)
◆テネシー・ウィリアムズと『ストーン夫人のローマの春』
テネシー・ウィリアムズは、アメリカを代表する劇作家のひとりです。そればかりか、優れた詩人、小説家でもありました。彼はもともと、この『ストーン夫人のローマの春』を、グレタ・ガルボ主演の映画の戯曲として執筆するつもりでした。しかし、多忙なガルボの興味をそそることができず、やむなく短編小説に表したそうです。1950年のことでした。
『ストーン夫人のローマの春』は、詩情に満ち、美しいイメージで埋め尽くされた作品です。心から愛していた夫が他界し、ローマにひとり居を構えたアメリカの元女優ストーン夫人が、若く美しい男と出逢い、性に目覚め、溺れ、破綻をきたしていく……。
ウィリアムズは、愛する者の喪失がどれほど多大な影響を人間に及ぼすかを熟知しています。その感覚が、共感の眼差しと詩的な描写力となって、夫なき後のストーン夫人の危うさ、脆さを描き込むことになりました。
ウィリアムズの映画化への想いは、61年、ヴィヴィアン・リー、ロッテ・レーニヤ、ウォーレン・ビーティ主演という形で実りました。しかし、性的な描写がまだまだタブーだった時代、いや、性について語り合うことすら敬遠された時代に、この作品のエッセンスを明確に描くことは、かなり困難であったことは想像に難くありません。
◆アッカーマン&シャーマンによる『ストーン夫人のローマの春』
劇作家のマーティン・シャーマンと私は長年の仲で、日本では『ベント』、『イサドラ』を上演しています。2003年、私たちはアメリカでTV映画としてこの作品を映像化しました。主演は、ヘレン・ミレン、アン・バンクロフト、ブライアン・デネフィー。おかげさまで好評を得ることができ、ゴールデン・グローブ賞、エミー賞などにノミネートされました。
成功の要因はなんと言ってもシャーマンの脚色にあると思います。
ストーン夫人のみならず、彼女に関わる人びとがヴィヴィッドに描かれたことで作品に幅と深みが増し、カレン・ストーンという女性がいっそう鮮明に浮かび上がったのです。
まず、ストーン夫人をめぐる二人の男性たち。生前の夫との関係がいかにストーン夫人の人生を形作り、彩ってきたかが、その存在と不在のコントラストを通して伝わってきます。さらに、クリストファーという原作にはなかった人物が登場します。ストーン夫人の親友である彼は、アメリカ南部出身の劇作家でゲイ……、と来れば、まぎれもなくウィリアムズの分身でしょう。ナレーター役も務める彼は、愛情と友情をこめた温かな視線で、女性として女優としてのストーン夫人を見守っています。
そして、イタリア人女性のコンテッサ。底意地が悪く、友情を装いつつ獲物を狙う。その強烈な存在感がストーン夫人の脆さを強調するだけではなく、その心の動きを明確にとらえ、彼女に何が欠如し、何に目覚め、何を獲得していくのかが、鮮明になったのです。
◆舞台化は東京、パルコ劇場で
テネシー・ウィリアムズの遺族は版権に厳しく、なかなか上演を許可しません。しかし、03年のTV映画版を評価し、シャーマンと私のコンビならば、ということで、快く『ストーン夫人のローマの春』の舞台版の製作を許可してくれました。
新作をどの場所のどの劇場で上演するかは、非常に重要な選択です。この作品については、ブロードウェイやウエストエンドからもオファーがありました。その中で、なぜ東京を選んだのか。
私にとって、20年以上の活動経験のある東京は第二の故郷といっても過言ではありません。しかも、演劇の興行形態や権利関係が過剰なまでにシステム化されたニューヨークやロンドンと違い、新しい存在を受け容れる土壌が日本の演劇界にはあります。事実、私は、少し開放された気分でここまで活動を行うことができました。その過程で、プロデューサーの方々、劇場の皆さん、俳優陣との信頼関係も構築でき、ザ・カンパニーと呼ぶ拠点すら立ち上げることができました。従って、新たな試みを考えた時、私の頭にはすぐさま東京が第一の候補として浮かんだのです。その希望は、シャーマン、そして彼のエージェントの方々のご理解を得て、実現することになりました。それに何と言っても、私たちの心には、『イサドラ』でご一緒した麻実れいさんにストーン夫人を、という絶対的な希望もありました。
そして、パルコ劇場。私たちは、この作品を将来的に世界に持っていくことを視野に入れています。パルコ劇場には海外との豊富な活動経験があり、その上、私にとっては、エントランス、舞台、舞台周りなど、すべての面で最もブロードウェイの劇場を彷彿とさせる存在なのです。そういった劇場環境が、『ストーン夫人のローマの春』を誕生させる場所としてふさわしいと考えました。
◆今、『ストーン夫人のローマの春』というタイトルから連想すること
『欲望という名の電車』、『ガラスの動物園』、『ストーン夫人のローマの春』……。テネシー・ウィリアムズがつけるタイトルには、豊かな叙情性があります。
『ストーン夫人のローマの春』について言えば……。
ストーンという言葉はもちろん「石」。その言葉が「ローマ」という言葉と並ぶと、少しクラシックな、ローマの遺跡、廃墟=歴史といったイメージに結び付くのではないでしょうか。人間は生まれ、死に、時間が過ぎ去り、そこには常に、長い歴史を目撃してきた、冷たく硬い石がある。
けれども、そこにスプリングという言葉が加わると……。スプリングには「春」、「泉」という意味があります。暖かく柔らかな太陽の光が当たり、木々が芽生え、水が湧き起こり、新しい季節の到来を感じさせるんですね。
そして、「ストーン夫人」という表記。彼女にはカレン・ストーンという名前がありますが、タイトルには「ストーン夫人」と記載されています。つまり、彼女が既婚者であることが、はっきりと示されているのです。彼女にとって、女優としての栄光も人生の喜びもすべてはミスター・ストーンがいたからこそ。だから、彼が亡くなったとき、未亡人の彼女は、「漂う」ような状況に投げ込まれたのです。
そして物語が始まります。「石」という名前を持つ女性が、「春」「泉」というまったく性質の違うものに触れ、何かを湧き上がらせていくのです。 |
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