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撮影:飯田安国 |
バルトークの『The Miraculous Mandarin』(舞踏組曲)は、1919年にパリで初演され、たちまち上演禁止となってしまった作品である。第一次大戦後の表現主義流行の中でも、よくよくグロテスクで不動徳な作品だと思われたのか、それとも余程、出来が悪かったのか、そのどちらかだったのだろう。メニュヘルト・レンジェルの台本では、無頼漢によって無理矢理娼婦にさせられた一人の少女が三人の客をとるプロセスがマイムとして演じられることになっていたそうである。「中国の不思議な役人」は、その三人の内の最後の客であり、不死の男でもある。死にきれない男に同情した少女がやさしく役人に腕をかしてやると、彼は安心して死んでゆく、というのがレンジェルの「原作」であった。
そこで、私はこの娼婦を13歳から15歳の少女にすることを考えた。少女と娼婦と人形とは、しばしば同義語であり、この三者は聖なる「口寄せ」であると思われたからだ。
私の少女=娼婦への関心は次第にルイス・キャロル的な魔術空間へと移ってゆき、あらゆるものに変身可能である世界としての私娼窟を設営し、「そこへ逃亡してゆく」のか、「そこから逃亡してゆく」のかを、主人公である少女娼婦に考えさせる、といった方向に向かいはじめた。そして、「そこから」と「そこへ」という対立をうつすために、逆のしぐさもうつしだす双面の鏡を売り出すことにした。
支那の球体的な迷宮世界で、「不死の男が、ただ無垢の少女と性的にむすびつくことによって死ぬことができる」という設定は、作品の一つの主題として既に措定されていた。
一方、不思議な役人は、等身大の肉体をもった一人の男としてではなく、からくり仕掛けの自動人形として、不死の男として登場することにした。これは、役人を支那の歴史の翳として寓意的に描こうという安易な政治指向ではなく、より強大な、いわば「永遠の男」は、やがて機械のダイナミズムによって象徴されるだろうという未来主義でもない。ともかく、役職をもった権力的な男は、黒衣によって操作されながら、つねに等身大の人間にもどりたいという願望と、より強大化してフランケンシュタインの怪物かキングコング化したいという力への願望とのあいだに引き裂かれている、という把え方としたのである。
ポーの『使いきった男』のように、そこに居るのに実在していない男と、少女娼婦の出会いを唯一の「物語」として展開してゆくこの作品は、演劇というより、見世物であると考えた方がいいだろう。そして、見世物から出発した私たちの演劇にとって、これはいわば一つの原点をなすものなのである。集団の悪夢によって彩られる歴史のバックミラーにうつし出されたイメージの集成が、この作品となっていったのであり、私にとっては一つの試みともなったのである。