舞台「アンチゴーヌ」東京公演は絶賛上演中です。
学生モニターの皆さんの新着感想文をご紹介いたします。
公演は27日(土)まで新国立劇場 小劇場<特設ステージ>にて上演!残り公演が日々少なくなっております。気になる感想文があったら、ぜひ皆さんも劇場へ足をお運びください!
「アンチゴーヌ」公演の詳細はこちら→
http://www.parco-play.com/web/program/antigone/
アンチゴーヌとクレオンが持つそれぞれの意思やプライド、大切な人への恩など、自分にとって大切なものが、時に人生を狂わせ、最終的にアンチゴーヌの死へと繋がってしまったことに、恐怖を感じました。アンチゴーヌとクレオンに、権力や家柄などの運命がなければ、二人はもっと幸せに暮らせるはずだったのかな、と私は思いました。
アンチゴーヌが処刑される直前のシーンにある、衛兵に遺書を書かせるところが、私はとても印象に残りました。何気ないような会話が、この後の処刑のシーンをより残酷で、切ないものに引き立たせているのかなと感じました。
衛兵に書かせた遺書は彼女の独白であり、誰にも打ち明けることのなかった本当の気持ちを知って、とても切なくなったのと同時に、アンチゴーヌが社会に抗いながら、自分の信念を貫き通す強さに、とても感銘を受けました。
公演が始まる前に、私はすでにこの芝居に心を掴まれていたのだと思う。
ホールに入ってすぐ、目に飛び込んできたのは、場を細く長く区切る十字形の舞台。周囲は壁に囲まれていて、十字の端だけが開いていた。
円形舞台を観るのは初めてだったので、余計に期待とわくわくが募った。
2人芝居
(※1)とは、こんなにも見入るものだっただろうか。
役者の息遣い、ちょっとした仕草、台詞の間合いの取り方、その全てに劇中の人々のこれまで過ごした人生が垣間見えて、それまでの人生そのものに入り込んでいるようだった。
照明、音響、舞台装置と心理描写の表し方が素晴らしかった。
特に最後の天井から砂が流れ落ちてくるシーンは、こぼれていく砂がアンチゴーヌの誰にも理解されなかった思いや涙のように感じて、あの砂がこぼれなくなる日は来るのか、いつかそんな日が来るように、と願わずにはいられなかった。
※1 パルコ注:「アンチゴーヌ」はいわゆる二人芝居ではありませんが、アンチゴーヌとクレオンの二人だけの場面がなんと45分にわたって展開されます!
率直にいうと、想像以上。
私は観る前にネットでアンチゴーヌのホームページに載せてあったあらすじを読んだ。国に反逆した罪にお墓をたててもらえず野ざらしにされた兄の死体を、重い刑に処されることを知りながら兄に土をかけ続けるアンチゴーヌ。そのような内容をざっと見た時に、私の中でのアンチゴーヌのイメージは、兄思いの純粋な、聖女のような清らかな少女。と、神話や聖書に出てくるような(あくまでも私のイメージです)いかにもオチは神様が救ってくれるような「善人」を思い浮かべていた。
だが実際は全然違った。アンチゴーヌという1人の小さな少女の中には燃え盛る情熱の炎があり、孤独に対する悲しさや、世の中に対する憎しみがあった。一番私の心の中に残ったのは、
兄の死体に土をかけるのは、誰の為でもない、自分の為。という言葉と、
小さな幸福はいらない。私は全てが欲しい。そうではないと死んでしまう(うろ覚えだが...)
という言葉だ。叔父であり王であるクレオンと議論した時の言葉だ。アンチゴーヌがまるで1枚、また1枚と自分の本性を暴いていくような感じがし、聞いていくうちに緊張が背中を走った。
自分の信念や感情を曲げたくはない。誰かに規制されるような、縛られるようなことはされたくはない。理不尽のない自由が欲しい。彼女は途中から狂ったように笑って叫んでいたけど、その内はただ真っ直ぐに己のまま生きたいという、言えば純粋のような思いがあったのではないかと私は思う。
建前で自分の心に嘘をついたクレオンに批判し、そんなのは間違っている。どうして自分を偽ってしまうの?と、現代の日本で生活している私達にも通じるような問いかけに、私はこれから考え始めるのだろう。
今回の舞台を観て、アンチゴーヌがもし王女でなかったら。もっと自由に生きられる立場であったら。彼女の人生は全く違うものになったかもしれないと考えると、私は言いようのない気持ちになる。
だが私たちはアンチゴーヌとは違い、死刑を天秤にかけずに自分の思いを声に出せる。ある程度の環境の違いはあるが自由に行動することが出来る。私は彼女の生き様を、一つの舞台に出てきた少女の人格、と捉えるだけにはしたくない。今一度私は私自身に向き合ってみたいと思えた。
私は、アンチゴーヌの婚約者エモンにすごく共感した部分があり、そのことについて書きたい。王である父を尊敬し、理想としていたエモン、そして婚約者であるアンチゴーヌを心から愛していたエモン。その2人を同時に失ってしまった彼の絶望は想像を絶した。何よりも「父親がアンチゴーヌを死なせた」という事実は、何よりも受け入れ難いことだと思う。しかし父との最後の会話の中で、エモンは、人間として自分は父親を超えてしまったことに気づいたのだと思う。もう親子ではなく、ただの人対人になってしまったのだと。そのエモンの絶望が私の胸には強く残り、自分だったらどうするか…と考えた。親子というのは繋がりの深いもの、今までずっとそう思っていたが、実はそうではないのかもしれない。大人に近づくにつれて、かつて抱いていた大きな大人の像が崩されるのかもしれない。私は大人から見ても尊敬できる大人になりたいと思った。
舞台の形が十字でセンターで交差する形になっていました。最初のシーンで人が行き交い無意識のうちに出会っていてその関係性が後半で出てくるのが面白かったと思います。音響のあの音楽は何か人間の生活を彷彿とさせて登場人物一人一人の生活や人生を考えてしまいます。壁に照明を当てて使うのは初めてで興味深かったが、いまいち意図が分からなかったです。私は自分の心の隙間と隙間で話しているのかと感じました。語り手がその場に生きてはいるが関係性が無くしかし存在しているものでとても面白く思えました。後半3人で王様と話すシーンも3人は1つの何かであってその何かと話し悩んでいる王様が非現実的でありました。それは王にとって檻となっている王という名前であり名声であり立場なのかと感じました。アンチゴーヌが洞窟へ行くとき手を天まで差し伸べていたのが生きたいという気持ちがとても心苦しく感じさせました。一人一人の考えや、それぞれの関係性が舞台セットや照明が演出をしていて興味深い舞台でした。
十字型の舞台を客席が囲む形は、どの位置からもこの物語を近くから感じることができた。アンチゴーヌとクレオンの2人が話しているシーンでは、緊迫した会話を大勢の人が聴いている形になり、上の席から観ていた私は裁判の様にも見えた。舞台袖からアンチゴーヌが歩き出すと、細長い道はショーのランウェイの様にも見え、彼女の足取りがより力強く、意思の込もった一歩に感じさせていた。
序詞が冷徹に語っていたのが、この物語で最も重要なアンチゴーヌとクレオンの感情の動きをより際立たせて見せていたと思う。
私は、アンチゴーヌほど強引にではなくとも、自分が正しいと思った幸せや、生き方を貫きたいので、彼女の選択がとても心強く感じた。
ソフォクレスの原作より遥かに長く引き伸ばされたクレオンとアンチゴーヌの対決。それがアヌイ『アンチゴーヌ』の核だろう。古代ギリシャの年取った男と若い女は、どの時代のどこの誰なのかはっきりしない年取った男と若い女として、装飾のそぎ落とされた舞台の上で二人きり向い合わされる。彼らはソフォクレスが描いた二人よりももっと似た者同士だ。感受性に溢れた娘とかつて感受性に溢れた青年だった男が、ありうべき未来の・かつてそうであった過去の自分に対峙し、互いの心のうちを余さず伝えあう。観客席の私はその様子を凝視しながら、男が人生のある時点でした苦渋に満ちた決断にも、女が男の心を知った上でする苦渋に満ちた決断にも、一方で全く同意し、他方で否応なく共感を覚えながら、二人の葛藤の総量で重くなった頭をもたげてカーテンコールを送ることになった。
散文的なクレオン、情熱的なアンチゴーヌの話。
クレオンの悲しみは、大人であることの悲しみ。嫌なことをやり続けながら、小さな幸福を噛みしめて生きながらえること。アンチゴーヌの目的は、絶対的な幸福をこの一瞬に捕まえること。その為に彼女はクレオンの提案を否定して自ら死を選ぶ。
アヌイによる翻案が素晴らしい。アンティゴネーを活かしながら主題を明確化させることに成功している。たとえば「やるべきか、やらざるべきか」という言葉はハムレットからの引用だが、クレオンはこれに「しかし一度やると決めればやらねばならぬ」と続ける。ハムレット的な悩みは誰にもあるが、そこに留まることは子供的で、大人はそこから進んで行かねばならないことを見事に表していた。
ソフォクレスとの大きな違いはクレオンに出ている。アヌイのクレオンは、アンチゴーヌとエモン、妻の相次ぐ死も歎くことなくただ静かに受け止める。彼の役回りは悪い、だがこんな日でも時間になれば彼は会議室に向かうのだ。この翻案には神が出てこないため、この悲劇の責任をクレオンだけが負うのが印象的。クレオンを演じた生瀬勝久の実力が十分に発揮されている名作。
あくまで自由を求めるアンチゴーヌ、さらにそれによって今また連鎖しようとしている悲劇というものそれ自体を相手にしたクレオンの孤独な戦いが胸に迫る作品でした。特に生瀬さんの演技に感動したのですが、中でもどうしようもなく凡庸な人物である衛兵というキャラクターを、場を緩めることなくさばき、シリアスな雰囲気の中に馴染ませる演技は本当に見事だったと思います。
原作から2千年余り、現実においてもフィクションにおいても数え切れない悲劇を生み出し、悲劇なるものへの自覚を高めすぎた人類が、それでもなおアンティゴネーを美しいと感じるのはなぜなのか、彼女とその一族の物語を必要とするのはなぜなのか、アンチゴーヌはそのような問いに対する非常に美しい解答であるように感じました。最後に蛇足ですが、眼鏡の衛兵さんがとても好きでした。
アンチゴーヌとクレオン、両者の正義に嘘はない。のにもかかわらず、あの理不尽な結末になることを無力な観客は止めることが出来ない。それは、登場人物たちも一緒だっただろう。観劇後、受け止めきれず茫然としてしまった。
複雑な感情をあの主演2人だからこそ単純化せずに伝えることが出来ていた。
主演の2人以外の役も細やかに描かれており、王族の庶民を軽視するような発言によって“どんな階級の人にも同じ人生がある”というのが逆説的に描かれていた。
“ルールと自由”“善と悪”“王族と庶民””現実と演劇”“過去と現在”といったテーマに関して、0か100かではなく、間にある無数の可能性に対して想像力を持とうよ!と終始訴えられている気がした。
栗山民也「演出家の仕事」を読むと、冒頭部分に、
“私たちの生活のなかで何度となく使う「はい」と「いいえ」とのあいだにも、無数の感情や表現がある……「はい」と「いいえ」とのあいだ、あるいは開いた手のひらと閉じた手のひらのあいだに、人間としての無数の感情の襞があることを知らなければなりません。”とあることから、これは栗山さんの永遠のテーマなのだなと確信した。
あとは、十字の舞台美術が興味深かった。照明も明るいため、真正面にいるお客さんたちの顔が常に見え続けるため、ことあるごとに“客としての自分”を感じ、終始冷静に観られた。
「本当の愛」について考えさせられ、人間が社会で生きていく中で出会う「矛盾」「葛藤」が大きく描かれていました。それと同時に理想と現実の壁がはっきりと見える、そんな舞台でした。
それは今の社会にも通じると思います。「嫌いなものを嫌いと言ってはいけない」そうすると、社会からは除外されてしまうから、だからみんな口を揃えて同じことを言う、劇中のアンチゴーヌの葛藤は凄まじいものであり私もとても共感できるものでした。
しかし、逆に「受け入れる」とはなんでしょうか。もし、アンチゴーヌが言われたことをいい、言われたようにする、そのように受け入れたことで何かが変わっていたのでしょうか。今も昔も変わらない、それぞれの「幸せ」や「愛」の形を感じました。
音楽については、それぞれ音の色とシーンの色に少しずれや濁りがあり、そこがまた興味深かったです。
目線から何から、役者それぞれの演技が光り、華があり、それぞれの色が叩きつけられ、その色が最後は混ぜられたそんな舞台だったと思います。
またそれにはパワーがあり、人と人との物理的な距離感、心の距離が一つ一つ丁寧でした。そう思えたのも、素晴らしい演出があったからです。全ての色を計算されつくした演出、とても感動しました。
今も昔も変わらない、「愛」とは残酷で美しいものだと改めて実感しました。そして、なにもかも死ねば終わりなのです。
「大人になるとはどういうこと」なのでしょうか。